【少女時代】

 1952年(昭和27年)7月に山形県米沢市に生まれました。鉱山で働く両親の愛情をいっぱいに受け米沢市板谷で育ちました。板谷は山深く、たった1つの交通手段の奥羽本線もスイッチ・バック式で山越えする所でした。今は新幹線も走りもう有りません。近くに「姥湯」(うばゆ)、「滑川」(なめかわ)、「五色」(ごしき)と秘湯があります。五色温泉では大正15年に日本共産党第3回党大会が開催されております。会場となった旅館は今も営業しており、大会をおこなった部屋も現存しております。党大会が開催された所で私が生まれ育ったとは、何かの縁か不思議さを感じます。


 そんな山奥ですから遊びといえば木に登ったり、野山を駆け回ることぐらい、真っ黒に日焼けした顔はよく「醤油で煮しめたコンニャクみたい」と言われ、夕方暗くなるのも忘れて自然の中で遊びました。また、豪雪の板谷はスキーが盛んで毎日スキーや橇(そり)遊びをしました。おかげでスキーが得意で「市」の大会で入賞したこともあります。また、友達がいじめられていると絶対に許せず、「弱い子をいじめるな」と男の子にも向かっていく、とにかく元気で活発な女の子でした。「不正を許さない」という政治信条はこの時からあったのかなー。

【青春時代】

 中学2年に福島市に移りました。高校は県立福島女子高、山岳部に入り吾妻連峰の山々に登りました。高校の3年間は勉強よりクラブ活動の方に熱中したように思います。


 そして進学、決して裕福な家庭ではありませんでしたが、両親の理解もあり山形大学工学部に入学、工学部への女子の入学は当時めずらしく同学年は3人しかおりませんでした。学費値上げ反対、ベトナム戦争反対、沖縄返還を求める学生運動が盛んな時、公害問題も社会問題になっていました。そんな時、友人に誘われて日本民主青年同盟に加盟、「科学的社会主義」を学ぶようになります。そうするとますます社会問題に関心をもつようになり、「自分も何かをしたい」と考えるようになりました。 「応用化学」を専攻していた私は特に公害問題に関心があり、いろいろ調査活動を行いました。今、ゴミ問題が私のライフワークになっているのはこの時が原点と思います。大学2年の時、まじめに勉学・学生運動をしている先輩・友人の誘いで入党しました。奨学金とアルバイト代で勉強、そして学生自治会活動をしたことは今では懐かしく思い出されます。

【その後、今】

 1975年(昭和50年)大学を卒業、就職は山形市内の製薬会社。 まもなく結婚、共働きで2人の子育てしながら新日本婦人の会で活動するようになります。山形支部の事務局長になり、保育園や学童保育所の設置、乳幼児の医療費無料化など、日本共産党山 形市議団といっしょに運動し実現してきました。
 1987年(昭和62年)にそれまでの鈴木敏江議員からのバトンタッチを要請され、みんなの頑張りで市会議員に当選、以後5期20年,そして県議も3期目、みなさんのご支援、ご協力に支えられて議員をさせて戴いております。2人の息子は成長してそれぞれ就職して行きました。今は党専従の夫と二人暮らしです。今、平和のこと、暮らしのこと、地方政治の役割の大きさをますます実感しています。

【父母のこと】

 父母は亡くなりましたが、2人とも楽天的で合理的な考えをもっており何事にも一喜一憂しない性格。この性格を私も受け継いでいるように思います。
 父は満蒙青少年義勇軍として中国に渡り、戦争の悲惨さをいやというほど経験し、生前よく「平和が何より大事」、「どんな事があっても戦争はしてはならない」と言っていました。のちに日本共産党があの戦争に生命がけで反対したことを知り、誇りに思うようになり、両親とも日本共産党の一員になってくれました。父母は「平和の尊さ」を教えてくれました。これも私の活動の原点になっています。